ばらの花

写真を始めて間もない頃に、夕方代々木の路地で撮影しました。
佐内正文さんの写真とか、くるりの「ばらの花」をイメージしながら。

良いものは良いけど僕は気が付かないのでちっちゃくなった。
新しい音楽を聴く時は評価する気持ちでいる。注意深く耳に意識を集中して、スピーカーから流れ出る一番最初の音を少しでも速くキャッチしようと、貪欲に待ち構えている。だからイントロ聞いた瞬間に鳥肌が立ったりするんだ。
でも。
日々繰り返しのルーチンライフを送っていると、自分のまったく知らないうちに自慢のアンテナは錆付いてる。クソ鈍っているんだ、悲しいことに。
手を伸ばしさえすれば届くのに、盲目だからそれに全く気付かないことにも全く気付かない。いくつもの新しい素敵なものは、鈍い奴には容赦なく、物凄いスピードで目の前を通り過ぎてく。
鈍いと気付いた時はもうすでに遅し。完膚なきまで取り残されて、僕みたいにちっちゃくなってる。
今思えば泣きたくなるけど、僕は子供の時からルーチンライフの才能があった。だからいくら「敏感だ」と喚いても、喚くのに必死な間に完全に逃してるので馬鹿みたい。それを認めようと認めまいと客観的事実は変わらないしタイムマシンも持ってない。認めれば後悔して認めなければ頑固ジジイの出来上がり、こんな些細な違いしかない。
だけど、昔は今よりちょっとだけマシで、若さの奇跡みたいな一瞬があった。
それまで評価の対象外と、完全にスルーしてたものに対して「あれ?これなんで今まで評価してこなかったの?」ってふと我に返る奇跡の瞬間。
若いから世界を知り尽くしたつもりにはまだ辛うじてなってなくて。世界に素直に期待してて、それに世界がたまたま応えてくれたっていう、そういう奇跡。
こういう瞬間を意識した一番最初の時が僕にとって「写真」に目覚めた時だった。雑誌を捲っていると唐突に、今まで評価しなかった「写真」が実はすごくパワーがあって、とても格好良いことだって気付いた。
特に好きになったのが佐内正史さんの写真だった。そしてふと気付いたのだけど、僕は前から中村一義さんやくるりが大好きだった。佐内さんの格好良い写真を何度も目にしながらスルーしており馬鹿みたい。
それでもひとつだけ信じたいと思った。奇跡には下積みがあるんだと。錆付いたアンテナはまるで機能してなくても、心のどこかに佐内さんの写真が引っかかっていたんだと。
鈍い人間にも感じる力はしっかりあるんだと。感じているのにただ気付けないだけなんだと、信じたいんだ。
少し長くなったけど、だから、あのときの奇跡の瞬間のことをこうしてしっかり思い出すことで、少しでもアンテナの錆を落として、今からでもまた歩き出せるんじゃないかなんて、そんな都合の良い「本当の奇跡」を願って。

(追伸)僕が二度目の奇跡の瞬間で植物に目覚めてバラの花を衝動買い、園芸を始めることになるのは写真を撮らなくなってから遥か時が経ってからなのだけど、写真を見返すと僕は実にバラの写真ばかり撮っている。これもまた、下積みだったのかもと思う。